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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』。今回がついに最終回です。4時間にわたるセミナーでしたが、出口社長はほぼノンストップでしゃべりっぱなしでした。一度休憩をはさみましたが、その時も「僕は4時間続けてでも大丈夫なんですけどね。皆さんもお疲れでしょうから。」と仰っていました。さすがです。

最終回では「質疑応答」をお送りします。



セミナー終了後の質疑応答

Q1: 歴史を学ぶ面白さとは何ですか?

ヘロドトスが『ヒストリア(=歴史)』というかたちで歴史を書いたときの言葉に全てが要約されています。
人間がこれからアホなことを繰り返さないように、今まで生きてきた古い時代の人々がどんなことを思い、どんなことをやって、どんなアホなことをやり、どういう風に失敗しどういう風に成功したかを書き留めておきたい ― このことに尽きますね。人間がよくわかる、ということですね。歴史書には勝った人も負けた人も全部公平に書かれるでしょう?でもビジネス書というのは勝った人の後出しじゃんけんでしょう?俺はこうやって成功した、と。だから歴史書の方が遥かに面白いと思いますね。


Q2:康有為(こうゆうい)の明治の日本を真似た変法が成功しなかった理由は何でしょう?

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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。4時間にわたるセミナーが遂に完結です。

最後は「中国のほんとうの姿」のお話。


毛沢東(もうたくとう)と鄧小平(とうしょうへい)
半藤一利(はんどうかずとし)という人が『幕末史』という本を書いていますが、これはすごく面白くて、“西郷隆盛は毛沢東にそっくりだ、大久保利通は鄧小平そっくりだ”、とその中で書いています。なんで日本がラッキーだったかといえば、毛沢東が早くやっつけられて死んじゃったからだ、と。西郷隆盛は詩人でやっぱり永久革命みたいなことを目指していた人だ、というような分析をしています。

もう一つ面白いことに、毛沢東というのは滅茶苦茶な人だったんですが、毛沢東に賛成した人も反対した人も一致して評価している点が1つだけあります。それは何でしょう?・・・

“詩人”としての能力が傑出しているんですね。毛沢東の漢詩というのは本当に素晴らしい。ということは、やはり毛沢東は夢想家だったということだと思いますね。


中国のほんとうの姿
今の中国のことを「共産党政権だ」と、イデオロギーを重視して語る人もいますが、― 僕は中国はイタリアやフランスほど詳しくはないんですが、それでも60~70くらいの町は自分の脚で歩いてみて、普通の人よりは知っていると思いますが― 、中国は変わっていないと思いますね。科挙の伝統が続いているのではないかと。中国は、「共産党ではなくて、昔からエリートの官僚が支配している国」だと思います。今に至るまでそうだと思います。

終わりに
去年の夏にライフネット生命で初めて中国から2人トレーニーを受け入れたので、その話をして今日の話を終えます。

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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

さて、今回は「清以降の中国の衰退」のお話。


外戚(がいせき)の活躍と官僚制
説明をちょっとし忘れたんですが、例えば漢の時代には、王奔(おうもう)という外戚が権力を握りました。外戚が権力を握れるということは、官僚制がないからですよね。宋の時代に科挙が完成してから、中国では外戚が活躍する場がなくなります。なぜか?それは官僚制が完璧に出来上がったからですね。外戚が入る余地がなくなるわけです。完成するのは西暦1,000年前後ですね。その頃日本は藤原道長の時代ですから、まさに外戚の天下ですね。それは日本は文書行政、そういう官僚制の樹立を考えなかったからではなく、印刷技術や紙が行き渡らなくて、官僚制を作ろうにも作りようがなかったわけですね。中国に官僚制が早く出来上がったのは、紙と印刷のおかげです。それを真似たのが、フランスで、マテオ・リッチ以下の宣教師が中国の分析をして、その土台の上にフランスのナポレオンの官僚制が、成り立ったのです。中国の模倣ですね。教科書を行き渡らせて試験をして国家公務員制度を作れば、これは役に立つぞ、と。そういうかたちでフランスの中央集権制はできているわけですね。

中国の衰退
1772年にウルムチ城が完成したということは、新疆(しんきょう)ウイグルを完全に自分のものにしたということを意味しているわけですね。それから乾隆(けんりゅう)帝は、四庫全書館を開きます。大皇帝はだいたい図書館を作りたがる、という話をしましたね。永楽(えいらく)帝の永楽大全、康熙(こうき)帝の康熙字典、乾隆(けんりゅう)帝の四庫全書、国が安定して超権力を持つ大皇帝が位につくと、図書館を作りたくなる例ですね。マッカートニーという大英帝国の特使が乾隆帝に接見して、貿易をしたいと願い出ます。乾隆帝は、お前たちの国から買うものなんか何もない。俺が貿易を許してやっているから、お前たちは絹や陶器をゲットできるんだ、それは我々の慈悲である。欲しいものがあれば買うけれど西洋は何も持っていないではないか、こういう会話が行われます。でも乾隆帝の終わりころにはもう国は乱れ始めていました。で、白蓮(びゃくれん)教徒の反乱が始まります。ただ、アヘン戦争の直前でも、中国は世界一の強国でした。1840年でもGDPの世界シェアはまだ32%もありました。しかし、アヘン戦争のあと太平天国の乱が起こり、日清戦争が起こり、中国は堕ち続けていきます。中国の分水嶺となったアヘン戦争の話もゆっくりしたいのですが、もう時間がありません。次の機会に。

康有為(こうゆうい)の革命

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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

さて、今回は「「清」」のお話。


ヨーロッパの宗教戦争の影響
明の保守的な官僚が鄭和艦隊(ていわかんたい)を潰したことによって、ヨーロッパに光明がさし、ヨーロッパはたまたま新大陸を発見して銀をゲットしたことによって中国に売るものができた、という形で中国とヨーロッパの関係は一時安定するわけですけれど、その頃ヨーロッパに何が起こったかといえば、宗教戦争ですね。ひと言でいえば、ローマ教会が領土を失うわけですね。これはルターの改革に始まって、ドイツとか北ヨーロッパとか、英国を全部新教に取られてしまうということで、新教にとられたということは、ローマ教会にお布施(お金)が入ってこなくなったということでしょう?ローマ教会というのは大きな組織を持っていますから、組織を維持するためにはお金がいるわけですね。ヨーロッパの領土が半減したわけですから、ローマ教皇は「もうしょうがない」、と。「これはいくら頑張ってもドイツとか北ヨーロッパとか英国での復活は望めない、ヨーロッパは、フランス、スペインとイタリアで我慢しよう」と思って、失った領地を新大陸に求めよう、お金儲けを新大陸でやろうと思って、一所懸命、新大陸とアジアに出ていくわけですね。1601年にはマテオ・リッチというイエズス会の人間が、北京に入るわけです。だから日本への布教も、明らかにその一環ですね。そのあたりは僕がいつもお勧めしている『クアトロ・ラガッツィ』という小説に書いてありますから、興味がある人は読んでください。すごく面白い小説です。

大清 最盛期へ
ヌルハチが独立した後、その子ホンタイジが、モンゴルの王族から大元ウルスから伝わった玉璽(ぎょくじ)をもらってハーンとなり国号を『大清』に変えます(1636年)。そのころネーデルランドが台湾を占領し(1624年)、急死したホンタイジの子、3代順治帝の時代に明は滅んでしまいます(1644年)。同じ頃に、ダライ・ラマという今のチベットの政権が成立し(1642年)、明の遺臣鄭成功(ていせいこう)が台湾を領有して(1662年)、清に抵抗します。その後、名君康熙帝(こうきてい)の親政がはじまり、清軍が台湾に入り、中国は初めてロシアとネルチンスク条約を結び、ジュンガル部のガルダン・ハーンという人をやっつけて、今の新疆(しんきょう)ウイグルのあたりまでを確保し、乾隆帝(けんりゅうてい)が即位して清の最盛期を迎えることになるわけです。この頃の人口調査で、中国の人口は1億4,341万1,559人に達します。これも一人の位まで記録が残っています。凄いことですね。

清の皇帝

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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。


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ここでちょっと告知を…
2011年12月17日(土)に、品川で出口社長と麻生川京都大学准教授による講演があります。
その名も「第5回リベラルアーツ教育によるグローバルリーダ育成フォーラム」。

この記事を投稿した12月3日現在、参加者枠はまだ空きがあります。
懇親会枠は残りわずかですので、お酒を交えながら出口社長・麻生川准教授と交流したい方は、ぜひ早めにお申し込みください!


こちらからお申込みいただけます。

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さて、今回は「「明」の復活 ~一条便法~」のお話。


陽明学
北虜南倭の頃の中国の1つの不幸は、朱子学にあるような気がしています。儒教は孟子の後、王安石(おうあんせき)の新法によって一度よみがえろうとします。徹底的な合理主義で、重商主義的な王安石が儒教の殿堂に入って、日本でいえば湯島の聖堂みたいなところに、孔子・孟子と並んで王安石が祀られていた時期が一時あったんですが、明によって朱熹(しゅき)の朱子学が国教になってからは、王安石は追われて、儒教は朱子学の天下になります。それは江戸時代の日本に引き継がれる訳ですけれど、朱子学は非常に体制擁護的、保守的なイデオロギー色が強いので、当然、その反動としてイデオロギー、頭でっかちじゃなくて先ず行動が大事だという反動が生じることは容易に想像がつきますね。それが陽明学(ようめいがく)で、1528年に死んだ王守仁(おうしゅじん)という人が創始したものです。平たく言えば、朱熹(しゅき)に対する反逆だ、と。朱熹によって、朱子学によって明という国ができているのに、北虜南倭でぜんぜん国が安らかにならないじゃないか、と。そこで生まれた学問で、行動を大事にするというのは皆さんご存知の通りですね。


一条便法 

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