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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。長く続いた王朝、隋唐帝国が滅亡します。

今回は「唐(4)」です。


ウィグル滅びる
この頃に、ユーラシアの大草原では、キルギスによってウィグルが滅びるんですが、いままでと違う点は、キルギスは大帝国を作れなかったということです。これまでの北方の遊牧民族は、スキタイ、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、柔然(じゅうぜん)、突厥(とっけつ)、ウィグルと全部大帝国を作っていたんですが、キルギスの時代になって、キルギスの力がそんなに強くなかったからだと思いますが、大帝国を作れなくなります。これも逆に言えば、唐を長もちさせた原因になりますね。それから、このあとキタイとかモンゴルとかいろんな民族がでてくる要因にもなります。


907年 唐 滅ぶ
845年、武宗(ぶそう)という皇帝が3回目の廃仏令を出します ― 白氏文集がちょうどできたころですね。この頃が中唐と晩唐の端境期に当たります。唐は4期に分かれて、初唐、盛唐、中唐、晩唐と呼ばれていることはご存知ですね?で、両税法によって持ち直したあたりが中唐です。そして、しばらくして世の中がまた乱れてきて、874年頃から黄巣(こうそう)の乱が起こって、907年に唐が滅ぶわけですが、900年代の初頭というのは、分裂したフランク王国が全部滅んで、フランス・ドイツ・イタリアの原型が出来上がる頃ですから、民族大移動によって、ほぼ同じ頃、東西に異民族が建国した拓跋(たくばつ)帝国とフランク王国は、滅ぶ時期もほぼ同じだったという不思議な暗合があります。

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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。隋唐帝国も終盤に差し掛かってきました。4時間のセミナーもこの辺りで3時間が経ったところですね。

今回は「唐(3)」です。


均田制(きんでんせい)
中国の税制は、隋唐帝国の後、単純に言えば、3回くらい大きく変わっています。先ず、最初のベースとなるのは均田制ですね。農民に土地を配って、米を作らせてその一部を上納してもらう。この均田制・租庸調(そようちょう)というのが基本でした。でも、安史の乱(あんしのらん)のような混乱が起こってくると、当然、農地も戦場になりますから、農民はどんどん逃げ出して、荘園と呼ばれる豪族の私有地へと逃げ込みます。荘園は国有地ではなく私有地ですから、国に税金を納める必要がありません。政府が分配する公有地がだんだん廃れてきて、豪族の荘園ができてくるというのはだいたい全世界共通の大きな流れです。古今東西の政治家というのはみんな、中堅農民とか中産階級を大事にしようとします。中産階級が多いほど、国が安定するからです。「王様がひとりいて、後は、市民はみんな同じや」と。そうなれば国が安定するでしょう?でも、王様の下に大土地所有の人々と貧しい人々がいて、中産階級が二極分化したら、国は不安定になります。これも世界共通です。

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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。気付けばもう23回目です。

今回は「唐(2)」です。


武則天 周を建国
さて、英傑、武則天は、天后では飽き足らず、690年、自ら皇帝の位に登り、周を建国します(唐は、一時的に滅んだわけです)。武則天が一番熱心にやったことは、科挙(かきょ)を徹底したことです。女性で唯一皇帝に就いた人だけのことはあります。女性が皇帝になるということは長い中国の歴史の中ではかなり異例なことですから、政権を安定させるためには、周囲に優秀な部下を集めるしかないわけですね。しかもその部下が従来どおりの世襲貴族などであれば、間違った考え ― 女は皇帝になるべきではない ― を持っているかも知れませんから、ひたすら下の層から優秀な人間を採用することで、選挙制、すなわち「科挙」を徹底して優秀な人間を集るわけです。武則天の宰相、狄仁傑(てきじんけつ)は「自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のもの」と、人材の豊富さを誇りました。このときに採用された若くて優秀な人々が「開元の知」という唐で最も栄えた玄宗(げんそう)皇帝の時代を支えるわけです。いわゆる盛唐で、杜甫(とほ)や李白(りはく)など中国詩がピークをつけた時代ですね。しかし、繁栄の陰で、大土地所有制が蔓延し、均田制や府兵制といった国家の屋台骨が有名無実化して、地方には節度使(せつどし)と呼ばれる藩鎮が割拠するようになっていきました。節度使の中では、河北の3節度使を兼ねた安禄山が有名です。

ウイグル 突厥(とっけつ)を滅ぼす
744年、ウイグルが突厥を滅ぼして、突厥はモンゴル高原を追われて西の方に流れていきます。この西の方に流れて行った人々はそのうちイスラム教に改宗し、トゥルクマンと呼ばれるようになります。また、西に流れて行った突厥の部族は、20の大集団に分かれていたと言われていますが、その中のオグズという部族の系統から、セルジュークとか、アクコユンルとかカラコユンルとか、オスマン帝国という大帝国の宗室が出ることになります。あるいは、キプチャクという部族の系統からは、エジプトのマムルーク朝、インドのマムルーク朝などの大王朝が出現しますので、ウイグルが突厥を滅ぼしたということは、長い目で見れば、中央アジアからヨーロッパの歴史を大きく塗り変える結果となります。

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2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

今回は「唐、そして当時の日本」です。


景教 中国に伝わる
玄奘が西へ向かってインドへ旅立った頃(629年)、逆に西から景教、(すなわち)ネストリウス派のキリスト教が唐まで伝わります。そしてこのあとキリスト教は、かなりの影響力を持つようになります。例えば一番有名なのは、クビライのお母さんが熱心なキリスト教徒です。

倭国 当時の日本
古代の日本、それまでの倭という国は、要するに田舎にあったわけですから、田舎の子どものように、ケンカの強い国だったように思います。すなわち、倭の政策はスイスと同じように、先進国に血を売って生きていくというものでした。要するに、先進国であった朝鮮半島に傭兵を出すことによってご飯を食べていた国が日本です。朝鮮半島の諸国は、その対価として漢字とか仏教とかいう新しい技術体系を倭に与えたわけです。

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最近は過ごしやすい気温になってきましたね。先日、中国系アメリカ人のビジネスマンと話す機会があったのですが、歴史の話で盛り上がってしまいました。「日本では曹操って悪者みたいに言われてるけど、実際はかなり有能な武将だったそうですね」って。その方は大いに喜んで、いろんな話を教えてくれました。日本の歴史も良く知っていて、普通にアマテラスとか信長の楽市楽座とか知っていてびっくりしちゃいました。
出口社長のこの講演に出るまで、歴史なんてほとんど興味がなかったのですが、実際にはグローバルな教養として素晴らしいものなんだと実感しました。

読書の秋、歴史を読んで過ごすのも素敵かもしれません。

さて、2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

今回は「中国一の名君、唐の太宗」です。



太宗 李世民(たいそう りせいみん)の即位
626年玄武門外の変(げんぶもんがいのへん)があって、中国一の名君といわれている皇帝、唐の太宗が即位します。

これは、まさに孟子(もうし)が考えた易姓革命(えきせいかくめい)の典型例ですね。

唐の太宗 李世民と煬帝(ようだい)は実はそっくりです。共にお兄さんの皇太子を殺して自分が皇帝になった。そうすると、隋を滅ぼして唐が立ったということは、煬帝というのは唐の太宗 李世民にとっては自分とそっくりな生い立ちを持っているわけですから、煬帝は徹底的に非道な皇帝で、自分はそれとは違って立派な政治をしたということを後世に残さなければ意味がないと考えるわけです。
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隋唐帝国がこれだけ長い間続いたということは、文帝・煬帝・太宗、後の武則天(ぶそくてん)と、この初期の4人が傑出して偉かったからだと思うのです。要するに、好運にも賢い皇帝が4代(実質的には)連続して帝権を担ったから、大唐世界帝国ができたんですね。

煬帝は運河を作って、異民族との交易を奨励するなど、まさに楽市楽座、交易を容易にしたことからも分かるように、立派な業績をあげた皇帝だと思います。

だから文帝・煬帝・太宗の業績にはほとんど差がないと思われるのに、唐の太宗 李世民だけが傑出して評価されているのは、李世民が最後に残って歴史を全部書き変えたからですね。

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