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歴史シリーズもついに20回を迎えました。すごい情報量です。この内容を4時間で、しかもたった1,000円で得られるというのは本当に素晴らしいセミナーだったと思います。参加できなかった方に、少しでもおすそ分けできれば幸いです。とはいえ第20回でもまだ7世紀。あと1,300年もありますね。今後もよろしくお願いします!

2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

今回は「唐の時代」です。



隋 滅び唐 建国
そのあと煬帝(ようだい)が中国の南北を結ぶ運河を開きます。
しかし、運河をひらいたり、高句麗(こうくり)との戦争があったりして、隋はあっという間に滅んで唐が建国されますが、隋の煬帝も唐を開いた李淵(りえん)は、いとこでどちらも鮮卑拓跋部(せんぴたくばつぶ)の出身です。

唐は李氏(りし)と言うことで、後に、祖先は老子であるというでっちあげを行いますが、それは全部ウソで、今はもう系図が明らかになっていますけれども、北魏や隋や唐を開いた王朝は全員が、鮮卑拓跋部の出身です。したがって、この連続した王朝のことを拓跋帝国と呼ぶ人がいるわけですね。北方の遊牧民は、契丹(きったん)帝国が出現し、中国のことをキタイ(キャセイ)と呼ぶまでは、ずっと中国のことをタクバチュと呼んでいました。

女性が強い時代

この拓跋帝国の面白いところは、女性が強いということです。鮮卑というのは、実は女性の地位がものすごく高い民族で、たとえば北魏・孝文帝(こうぶんてい)の政策、均田制等も、孝文帝の実母と言われている馮皇后(ふうこうごう)が実質的には全部取り仕切ったわけですから、まさに武則天(ぶそくてん)の先輩のような女性が北魏にいたわけです。

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(写真:中国ドラマ「北魏馮太后(2006)」より)

7世紀には、新羅(しらぎ)にも女性の王が生まれます。新羅も鮮卑拓跋部の影響を色濃く受けた王朝です。

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ご無沙汰しております!更新が滞っており申し訳ありません。生きています。
さあ、2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

今回は「隋の統一」です。


中国の統一へ(気候の温暖化)
古代・中世では気候が暖かくなるということは生産力が上がり人口が増えることですから、3国の中でまず北周という国が強くなり、その3代、武帝が、574年に仏教と道教を弾圧して、中国では仏教が弾圧されるのは4回あるんですけれども、2回目の大弾圧が起こるわけです。最初の大弾圧は寇謙之(こうけんし)という道教のお坊さんに教唆されてやったわけですが、北周の武帝の大弾圧は基本的な性格が全く違います。「統一するためにはお金がいる、仏教も道教も寺院にたくさんお金を蓄えてるから、軍資金として取っちゃえ」と、そういう発想が根本にあるわけですね。こうした発想は西洋でもあって、例えば、イングランドのヘンリー8世が修道院をつぶしたのも、お金が欲しかったからですね。


チベット ソンツェンガンポの即位
577年、北周が北斉を滅ぼして華北を統一するんですが、ちょうどその頃チベットでは初めての統一王国(吐蕃)ができつつありました。7世紀初頭にソンツェンガンポが即位します。これが何で意味があるかと言えば、仏教が中国に入ってくる2回目の大きい流れの最初と位置付けられるからです。

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最近は更新速度がゆっくりで申し訳ありません。2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

今回は「拓跋(タクバチュ)帝国の始まり」です。


北魏と仏教(雲崗の石窟(うんこうのせっくつ))
北魏という国は(非常に興味のある国なんですが)、鮮卑(せんぴ)の拓跋部(たくばつぶ)が作った国です。拓跋部は、明らかに異民族ですから、華北を統一したときに「なんで俺たちはこの国を仕切っているのか」、「この国の権力を自分たちが持っている根源は何か」ということで悩むんですね。中国人だったら悩まないんですよ。易姓革命(えきせいかくめい)という格好の理論があるでしょう。「前の奴が悪かったから俺が皇帝になったんだ」ということで何一つ悩む必要がないんですよ。ところが拓跋部は外国人ですから、「なんで俺が皇帝になれるんだろう」ということについてアイデンティティがないわけですね。そこに、仏教が知恵を授けるわけです。当時の仏教というのは国家仏教ですから、皇帝は仏様です。官僚というのは菩薩です。人民というのは仏と菩薩が救うべき衆生大衆(しゅじょうたいしゅう)です。これは、外国人にぴったりはまる統治理論ですね。「そうか、俺は仏の生まれ変わりだから人民を救ってやらにゃあかんのや」と。この教えは外国人にとってはぴったりくるわけで、だから雲崗の石窟の仏様の顔は代々の北魏の皇帝を映したものですね。

ところで、雲崗龍門の石窟へ行った人手を挙げてください(皆、手をあげない)

・・・あんまり旅はしてませんね(笑)。

龍門の石窟で一番美しくて一番大きい像は、武則天(=則天武后)の生き映しだといわれていますね。唐の皇室も鮮卑拓跋部の出身です。雲崗の大仏は龍門の武則天の大仏に姿をかえ、そのあとさらに東に移って東大寺の大仏に変化するわけですね。そういう風に、北魏によって仏教というのはものすごいパワーを持つに至るわけです。

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前回の更新から随分時間が空いてしまいいました。申し訳ありません。2011年5/22(日)に開催された、ライフネット生命出口社長による『中国4000年の歴史セミナー』の続きです。

今回は「南北朝時代」です。


南北朝時代の始まり
ユーラシア中央部の大草原地帯では、スキタイから匈奴(きょうど)、その後鮮卑(せんぴ)へと覇権が移りますが、鮮卑はほとんど中国に入ってしまいますから、そのあと柔然(じゅうぜん)という大きい帝国ができて、402年には柔然の天下になります。要するに中央アジアの大草原の心臓地域では、スキタイ → 匈奴 → 鮮卑 → 柔然という風に権力が移ってきたと覚えておいてください。

で、北魏(ほくぎ)が386年にできたあと420年には東晋(とうしん)が滅んで、劉裕(りゅうゆう)という人が宋を建国して、 ― ちょうど倭の5王(讃、珍、済、興、武)がここに遣いを出す国ですけれども ― このあたりで南北法時代というのが本格的に始まるわけですね。

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六朝文化
中国の人々は北方の異民族が攻めてきた時に、長江の南に逃げて、いわば北を見捨てたわけですから、もう南だけ守ってのんびりしていればいいや、という風な気持ちになります。長江という天然の要塞に守られて、南の方で文化が栄えることになります。それが六朝文化(りくちょうぶんか)と言われるものですね。たとえば代表は、陶淵明(とうえんめい)のような詩人ですね。 あるいは、紹興酒で有名な紹興の郊外に作った蘭亭(らんてい)という小さい庵で王羲之がパーティをやり、そこで蘭亭の序(蘭亭序)という書道の最高傑作を書いたような時代ですね。北魏と宋ができて、南北朝の対立がはっきりしてというかある程度安定して、六朝文化が花開くことになるのですが、北魏は439年に華北を統一して、ここからいよいよ拓跋帝国(たくばつていこく)が始まるわけですね。鮮卑の一部族である拓跋部が建てた北魏、隋、唐と10世紀まで続く、中国の異民族の大帝国の始まりです。西のフランク王国と同じような歩みを見せるわけです。

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